聖夜に死ぬ

 

 

 人間との関係がある程度の深度まで達すると途端に面倒(とひとことで表しても足りないような感情だが)になってしまい、それから距離を取ってみたり、それを遮断したりしてしまう。

 現実の人間とでもそうであり、またSNS上でもそうである。

 そもそも、現実の人間関係をSNSに持ち込んだり、またSNS上の関係を現実に持ち込んだりするのは良くない。あくまで僕の場合なのだが、SNS上の僕と現実の僕があまりに乖離しているからだ。もはや、まったくの別人格と言ってもいい。

 ほとんどのネットに生きる人格(つまり、本名ではないアカウント)がそうなのではないかとも思う。言い換えれば、ほとんどの人間が普段の自分ではない人格を内奥に秘めている気がしている。

 自分ではない人格が、他人とコミュニケーションを取っているのを見るのが好きだ。現実の自分を取り巻く環境とはまったく別の場所で、新たな世界が広がったように感じる。しかし、その人格、世界をある程度まで獲得してしまうと、再び退屈な日常が僕を蝕んでいく。

 日常に刺激がほしい訳ではない。ただ、なにも成し遂げずぬるま湯に浸かっているように過ぎていく時間が、僕を焦らせる。

 昔からどこか自分は特別なのだという気持ちがあったかもしれない。小学生に上がる前までにはほとんどの文字の読み書きができたし、小学生のころは100点以外のテストはほとんど取ったことがなかったと思う。中学、高校でも感想文や絵などの作品で表彰されていたし、今考えても周りの同年代や、教師からも一目置かれていたと思う。

 中学生までは比較的まともな人間のガワを保っていた。学年委員長として学年を取り纏めたり、ひとづきあいも比較的「上手かった」。

 高校に入ってから徐々にそのガワを取り繕うことが出来なくなっていったように思える。今まで簡単にこなせていた「世間から見て普通の人間の交わり」を「受け入れること」がどうにも上手く出来なくなったのだ。

 端的に言うと、「全てがバカだ」と思っていた。人を見下していたわけではない。ある程度の人との関わり、その深度が、自分のこころをなんら動かさないと思っていた。 よく考えてみるとそれは昔からそうだった。そうであったのに、それに「心動かされた」というフリをしていただけだったのだ。

 僕は他の人より少しだけ人に心を開くということが下手で、そして心を開いていない人たちに何らかの感情を抱くことが出来ない人間だった。昔はそれをうまく感じさせないことが出来た。

  一度僕のなかでそれ(人間関係)はそういうものだと思ってしまうと、胸のざわつきや不快感が抑えられず、「未知のもの」以外の中では過ごせなくなってしまった。しかしそれらは、「永遠に未知」ではない。この世に永遠に意味が生まれ続けていくものなんてあるのだろうか。

 結局のところ僕は我儘で、僕自身が大した存在でもないくせに「もっと知りたいと思わせてくれ」という感情を他人に押し付けている。 

 つまり僕は「酷い人間」というジャンルにカテゴライズされるだろう。なろうとしてなったわけではないが、なるべくしてなったと言えるだろう。しかし僕もおそらく一般的な教養、生活の中で育てられた立派な現代人であるので、自分という存在を消してしまいたい、まっさらにしてしまいたいという欲を持つことが確かにある。

 そうしてSNSに僕の別の人格を託し、僕はそれを何度も殺していく。幸運なことにSNSという世界はそれが消えたところで何も変わらない。そうした死の疑似体験に浸る度に、僕は妙に落ち着くのだ。