0828の日記

 

 

2年前の同日に同じ題名のブログを書いていたらしい。この2年間本当に色々なことがあった。たくさんの悲しいこと、喜ばしいこと、苦しいこと、楽しいことがあった。そして少しの出会いや別れがあった。その全てに意味があった、なんて微塵も思わないけれど、それらはずっと僕を苦しめるし、ずっと僕の希望でもある。

 14歳のころ、16歳になったら死のうと思っていた。しかしいざ16歳になってみれば、18歳になったら死のうと思っていたし、そして18歳になっても、来年死のう、と思い、19歳になると、20歳になったら、と怖気付き、そして、20歳になってみれば、自分がいま死んでもなんにも美しくなくなってしまった、ということに気付いた。実際いつ死んでもなんにも美しくなんかないのだけれど、その事実のおかげで生きながらえているような気がしている。

 この一年間、常に自分のとなりに「死」が存在していたからか、絶対に脳が縮んだ。頭にもやがかっているような感じがするし、判断力も鈍っているし、頭の回転も確実に遅くなった。常に焦燥感や不安感に襲われている。健常者になりたい。

  世間の言う「大人」になってから、人生の節目みたいなものがわからなくなっている。というか、明確に節目が存在しない。だから周りの人たちは家を建てたり、車を買ったり、結婚や出産をするのかもしれないと思った。それらをしないと、人生が平坦すぎる。僕の人生は、きっとこれから一生真っ平らである。

 でも今日は焼肉を食べたのでちょっと凸の部分が生じた。これからは毎日焼肉を食べる。

 

 さようなら

ブロンOD感想

 

 お久しぶりです。

 ブログに書くような面白い出来事が人生において全く起きなかったのでしばらく投稿をしていなかったのですが、皆さんが少し興味を持つかなという出来事があったので文章にしていきたいと思います。

 タイトルにもありますが、かの有名なエスエスブロン錠のODについてです。

 最近咳が止まらず、かといって病院に行く気力もないのでAmazonで購入したエスエスブロン錠を服用していました。(完治まではいかずとも、飲むと30分くらい経ってから症状が少し治まります。普通に病院に行ったほうが良い)

 僕は昔から不安症なのですが、最近は特に精神のバランスを崩し、夜中になるとどうしようもない焦燥感、不安感に襲われ、それに伴う自傷行為や、不眠に悩まされていました。

 そこで思いついたのがブロンのODです。

 ブロンのODについて概要はなんとなく知っていましたが、詳しい知識などはなく、また前情報なしに自分の体に起こる変化を感じたかったので、ネットで検索などはせず、とりあえず15錠ほど最初に飲んでから、様子見で数錠ずつ足していくことにしました。最終的に飲んだのは25錠ほどだと思います。

 薬を飲み始めたのは夜中の1時くらいだったと思います。ブロン錠はおそらく普通の錠剤よりかは大きめなのですが、水に沈むため喉の奥のほうに招くと5錠〜7錠くらいはあっさり同時に飲み込めました。(錠剤が苦手な人は苦しいかもしれない)言ってしまえば衝動的に飲んだので15錠より少し多かったかもしれませんが、錠剤を飲み干したあと、30分ほど机に向かって読書をしていました。その日とその前日は食事を1回しか摂っておらず、薬が早めに吸収されると予想していましたがあまり変化がなかったので数錠追加して飲み、再び読書に戻りました。

 変化があったのはもう30分くらい経ってからです。それでも明確な変化とは言えないのですが、毎晩襲われる焦燥感、不安感がやってこないことに気付きました。いつも冷えている手足に血が巡り、ポカポカするような感覚があったので本と一緒に布団に入りました。

 ブロンをODすると集中力が上がると聞いたことがあるのですが、それはあまり実感出来ませんでした。強いていえば、視界がいつもよりクリアになっているような印象がありました。読書もいつもよりかは捗った気もしますが、今思うとそれはブロンを飲むと集中ができるという前情報が頭にあったためのプラシーボ効果のようにも思えます。

 また、五感がいつもより鋭敏になると聞いていたのですが、それは実感することが出来ました。周囲の音や、服や布団が肌に触れる感覚がいつもより鮮明に感じられます。しかし、感覚がポジティブに補正されるというよりかは、もとの感覚が増幅されるという感じなので、普段から苦手なものには触れないほうが良いと思いました。多分ネガティブな気持ちが増す。

 その後、友人から作業通話の誘いがあったので、3時くらいから朝方にかけて通話をしました。やたら喉が乾くのでペットボトルの水をガブ飲みしながら戦姫絶唱シンフォギアXV」の悪口を聞きました。歌が良いので毎回「面白かった」と騙されてしまうのだけれども、普通にクソアニメだそうです。*1じゃん。

 薬のせいか普段よりリラックスした気持ちで会話を楽しみ、2時間ほど通話をしてから気持ち良さの延長線上にあった眠気に身を委ねて眠りました。

 薬の効果(効果と言って良いのだろうか)を一番はっきりと感じたのは朝起きた瞬間です。4時間ほど眠ってから目が覚めたのですが、まず頭が死ぬほど重い。痛い訳では無いのですが、本当に重りを付けられたような感じ。喉がカラカラだったので脱水症状かと思い水を飲みましたが、治らなかったので恐らく違うと思われます。というより、前日の夜の自分の調子が良かっただけで、普段の朝の自分の体調はこんなものでした。薬を飲んでいる時間は自覚していなかったけれど、普段の自分に戻ることにより、薬の効能で感情や感覚を歪められていたことを認識し、苦しくなりました。ずっと薬を飲み続けようと思える狂気があれば良かったのですが、僕はそうはいかなかったです。

 どうしようもない不安感に襲われ、放っておいたら自分で死を選んでしまう、という状況に陥るよりかは、それより前に気軽に手に入るブロンを飲んで、その場だけでも不安感を抑えるという手段は悪くないと思います。依存性が高いとは聞きますが、わかりやすくラリるようなことはなく、緊張感が薄れ、リラックスしているような状態に陥ることができます。量をもっと飲むとガツンと気持ち良さがやってくるのかもしれませんが、個人的には20錠くらい飲んで緩やかな楽しさを味わうくらいが一番良いと思います。それと、僕の場合は恐らくですが寝る前に薬を飲んだのが良かった。寝ている間に薬の効果が薄れ、感情の極端な変化を認識することがなかったからです。

 自分からおすすめします、とは言えませんが、皆さんがどうしようもない不安に襲われたときに逃げる道として用意しておくには良いのでは、と思います。

 

 みんな生きていこうな めめを

 

 

 

 

 

 

 

聖夜に死ぬ

 

 

 人間との関係がある程度の深度まで達すると途端に面倒(とひとことで表しても足りないような感情だが)になってしまい、それから距離を取ってみたり、それを遮断したりしてしまう。

 現実の人間とでもそうであり、またSNS上でもそうである。

 そもそも、現実の人間関係をSNSに持ち込んだり、またSNS上の関係を現実に持ち込んだりするのは良くない。あくまで僕の場合なのだが、SNS上の僕と現実の僕があまりに乖離しているからだ。もはや、まったくの別人格と言ってもいい。

 ほとんどのネットに生きる人格(つまり、本名ではないアカウント)がそうなのではないかとも思う。言い換えれば、ほとんどの人間が普段の自分ではない人格を内奥に秘めている気がしている。

 自分ではない人格が、他人とコミュニケーションを取っているのを見るのが好きだ。現実の自分を取り巻く環境とはまったく別の場所で、新たな世界が広がったように感じる。しかし、その人格、世界をある程度まで獲得してしまうと、再び退屈な日常が僕を蝕んでいく。

 日常に刺激がほしい訳ではない。ただ、なにも成し遂げずぬるま湯に浸かっているように過ぎていく時間が、僕を焦らせる。

 昔からどこか自分は特別なのだという気持ちがあったかもしれない。小学生に上がる前までにはほとんどの文字の読み書きができたし、小学生のころは100点以外のテストはほとんど取ったことがなかったと思う。中学、高校でも感想文や絵などの作品で表彰されていたし、今考えても周りの同年代や、教師からも一目置かれていたと思う。

 中学生までは比較的まともな人間のガワを保っていた。学年委員長として学年を取り纏めたり、ひとづきあいも比較的「上手かった」。

 高校に入ってから徐々にそのガワを取り繕うことが出来なくなっていったように思える。今まで簡単にこなせていた「世間から見て普通の人間の交わり」を「受け入れること」がどうにも上手く出来なくなったのだ。

 端的に言うと、「全てがバカだ」と思っていた。人を見下していたわけではない。ある程度の人との関わり、その深度が、自分のこころをなんら動かさないと思っていた。 よく考えてみるとそれは昔からそうだった。そうであったのに、それに「心動かされた」というフリをしていただけだったのだ。

 僕は他の人より少しだけ人に心を開くということが下手で、そして心を開いていない人たちに何らかの感情を抱くことが出来ない人間だった。昔はそれをうまく感じさせないことが出来た。

  一度僕のなかでそれ(人間関係)はそういうものだと思ってしまうと、胸のざわつきや不快感が抑えられず、「未知のもの」以外の中では過ごせなくなってしまった。しかしそれらは、「永遠に未知」ではない。この世に永遠に意味が生まれ続けていくものなんてあるのだろうか。

 結局のところ僕は我儘で、僕自身が大した存在でもないくせに「もっと知りたいと思わせてくれ」という感情を他人に押し付けている。 

 つまり僕は「酷い人間」というジャンルにカテゴライズされるだろう。なろうとしてなったわけではないが、なるべくしてなったと言えるだろう。しかし僕もおそらく一般的な教養、生活の中で育てられた立派な現代人であるので、自分という存在を消してしまいたい、まっさらにしてしまいたいという欲を持つことが確かにある。

 そうしてSNSに僕の別の人格を託し、僕はそれを何度も殺していく。幸運なことにSNSという世界はそれが消えたところで何も変わらない。そうした死の疑似体験に浸る度に、僕は妙に落ち着くのだ。

 

0828の日記

 

 パプリカ→聲の形パーフェクトブルーという順に二日間かけて三本のアニメ映画を見た。初日にパプリカ→聲の形、二日目にパーフェクトブルーといったかたちだ。

 はっきり言ってパプリカ→聲の形という順番が最高だった。もし僕が個人経営の映画喫茶みたいなもののマスターになったら一生その順番で流し続けると思う。(そして、すぐに潰れる)

 何がよかったかというと、対比がとにかくよい。現実と夢が混じり合う狂気の世界を描いた密度の高い世界観のパプリカと、とにかく現実を、心地よい間(ま)と絵でみせる聲の形聲の形→パプリカじゃなくてパプリカ→聲の形なのが満点だった。

 パーフェクトブルーのほうは、ハッピーエンドなのだろうけど、少し影を残す終わりかた。パプリカはアニメじゃなきゃできない表現ばかりだったけれど、こちらはその気になれば実写でもできるようなものなので、アニメとしてはパプリカのほうが良かったと思う。しかし物語のつくりは本当に素晴らしいもので、圧倒される。主人公と一緒にこちらもだんだん現実と夢の境界がわからなくなってくる。中盤あたりから何回も何回も「謎が解けた」と思うのだけれど結局それは違って何回も騙される。パプリカしかりパーフェクトブルーしかり、「夢」「幻想」と「現実」の狭間を描くのは少し間違えると本当に「わけのわからない」作品になってしまいそうだけれど、そこのバランスがとても良いなあと感じた。

 パーフェクトブルーかパプリカについては考察できる部分がおおいにあるのでツイッターか、もしくはここに、それについて投稿するかもしれない。

 聲の形は劇場で見たので二回目。劇場で見たときは「川井は脳のものを考える回路が腐っている」と思ったのだが、二回目は「川井は脳のものを考える回路が腐っている」と思った。結局。

 僕はよく「創作物の登場人物の行動には一貫性を持たせる、または視聴者が納得出来る理由をつけてほしい」と言っているのだが、聲の形でそれが備わっている場面は実は多くないと思う。

僕がなぜそう言っているかというと、「キャラクターが物語の外側(=製作者たち)の都合で動かされている姿を見たくないから」である。そう見えないのであれば、キャラクターに一貫性がなかろうが何をしようが構わない。そういうわけで、ただでさえ思春期の不安定な子どもたちに「西宮」というエラー要素を与えたらバグるのは当たり前だな、と思える。あと植野を好きなオタクは絶対マゾ。

 それと、さくらももこの訃報を聞いたので、彼女のエッセイを引っ張り出して読んだ。「もものかんづめ」だ。ゲラゲラ笑うというよりニヤリといやらしい笑みが零れる。「メルヘン翁」が個人的には好きだ。

 いくつか記事の下書きが溜まっているので、少しずつ書き進めたいと思う。次投稿するのはおそらく自分の好きな漫画について、だと思われる。

僕と夜と本

 

 

 

  夜になると思考が冴え渡るということは誰にでもあることなんじゃないかと思う。寝る直前、布団に入って、目を閉じた瞬間、ほんの数秒前までは眠気や疲れを感じていたはずなのに、急に頭の中に様々な考えが巡るのである。

  僕の場合よく頭に浮かんでくるのは、自分が死ぬことについてだとか、世界(自分)がこれ以上悪くならないようにするためにはどうしたらいいのかだとか、昼間少し気にしても、すぐ忘れてしまうようなことなのだけれど、夜、ひとりでいるときに頭にそれらが浮かぶと、とんでもない不安感を覚えてしまう。僕はそれのせいで眠れなくなったり、精神的に不安定になってしまったり、体調を崩してしまったりする。

  そういうことが一度あると大抵二日、三日とそれが続いていって、夜中に眠れない、朝に起きれない、そしてまた夜中に眠れない、といった負の連鎖が生まれていく。

 

  前置きが少し長くなったが、そういうときは、本を読むといいですよ、という当たり前のような提案と、僕が個人的に好きな本を、みなさんに読んでほしい、という願望を記していこうと思う。

 

 

 

 

   砂の女/安部公房

 

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

 

   あらすじを簡単に説明すると、海外の砂丘に昆虫採集をしにやってきた男が、その砂丘の奇妙な集落にある女の家に閉じ込められ、その女と共同生活をしていくという話。

  ちょっととにかく文章が巧みすぎる(拙い文章)。砂に囲まれた集落での生活(家が砂に埋まってしまうほど生活が『砂』に支配されている)という異常な状況なのに、容易に目の前に光景が浮かんでくる。それでも周りは「砂」だけなので、情報の多さに苦しむこともなく、ただひたすらに読みやすい。

  ちょっと文章が上手すぎて、こんな上手い文章を書くな、やめろ、勘弁してくれ、と思ってしまう。

  個人的に最初の「罰がなければ、逃げる楽しみもない」というポエムが好きで(ポエムと言うな)その一文を読むと「砂の女、おもしれ〜」となってしまう。

  あと、終わりかたが絶妙に好き。読み終わるまではどんなラストになるのだろう?と思っているのに、終わってみれば、これ以上はないな、と納得してしまう終わりかた。ネタバレは避けるけど、とにかく良さみが深いので読んでみてください。有名どころに間違いはない。

 

 

  ハーモニー/伊藤計劃

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 

     読め。

 

 

 

 

 

 

  孤島の鬼/江戸川乱歩

 

 

孤島の鬼 (江戸川乱歩文庫)

孤島の鬼 (江戸川乱歩文庫)

 

 

 

  僕はオタクなので乱歩をよく読むのだが、その中でも特に好きなのがこの「孤島の鬼」。

  主人公の儚い系美青年蓑浦金之助が、恋人初代の死の真相に迫りつつ、イケメンゲイの諸戸道雄に言い寄られる話。

  僕は乱歩の推理小説より、エログロナンセンスな小説が好きなのだが、この「孤島の鬼」はそういった、エログロナンセンスな部分も含みつつ、また推理小説としても面白い。また、いつもの乱歩っぽいおどろおどろしい怪奇小説の面もあり、冒険小説的な面もあり、最高の出来だと思う。あんまり核心に迫ることは言えないが、人死にのトリックがあまりにも「乱歩すぎる」。多分丸尾末広少女椿が好きな人は気に入る作品だと思う。

 

少女椿

少女椿

 

   一応、貼っておく。

 

 

  死者の奢り/大江健三郎

 

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 

 

  灰色がかった水色っぽい話。(これを言って共感してもらえたことはないのだが、誰かひとりでも共感してくれる人が現れるまで僕はこれを言い続ける。)

  死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗に躰をすりつけあっている。

  最初の数行なのだが、文章が美しすぎる。これを読んでいるとき、完全に自分が「死者」 になっていることに気づく。ホルマリン(死者はホルマリン漬けにされている)の中をただよい、混じりあう、気だるさや、心地良さのようなものまで感じる。

  昭和三十年代の作品であるにも関わらず、登場人物の心情に共感することができる(本当の意味でできているかはわからない)のはこの作品の強み、「普遍性」だと思う。大江健三郎の本は本当にどれも良いのでみなさんぜひ読んでみてください。

 

 

 

  そんなに多くは、そして長くは紹介しなかったが、どれも本当にしっとりと面白く、夜に読むのにはうってつけの作品なのでこの記事を読んで興味を持った方はぜひ読んでほしいなと思う。

  ちなみに、Amazonのリンクを大量に貼ったが、ここからいくら購入しても僕には1円も入らないので、安心して10000冊購入してほしい。

 

 

  本について話したいことはまだまだあるので、また気が向いたら更新しようと思う。

  みなさん良い夜を。