0828の日記

 

 パプリカ→聲の形パーフェクトブルーという順に二日間かけて三本のアニメ映画を見た。初日にパプリカ→聲の形、二日目にパーフェクトブルーといったかたちだ。

 はっきり言ってパプリカ→聲の形という順番が最高だった。もし僕が個人経営の映画喫茶みたいなもののマスターになったら一生その順番で流し続けると思う。(そして、すぐに潰れる)

 何がよかったかというと、対比がとにかくよい。現実と夢が混じり合う狂気の世界を描いた密度の高い世界観のパプリカと、とにかく現実を、心地よい間(ま)と絵でみせる聲の形聲の形→パプリカじゃなくてパプリカ→聲の形なのが満点だった。

 パーフェクトブルーのほうは、ハッピーエンドなのだろうけど、少し影を残す終わりかた。パプリカはアニメじゃなきゃできない表現ばかりだったけれど、こちらはその気になれば実写でもできるようなものなので、アニメとしてはパプリカのほうが良かったと思う。しかし物語のつくりは本当に素晴らしいもので、圧倒される。主人公と一緒にこちらもだんだん現実と夢の境界がわからなくなってくる。中盤あたりから何回も何回も「謎が解けた」と思うのだけれど結局それは違って何回も騙される。パプリカしかりパーフェクトブルーしかり、「夢」「幻想」と「現実」の狭間を描くのは少し間違えると本当に「わけのわからない」作品になってしまいそうだけれど、そこのバランスがとても良いなあと感じた。

 パーフェクトブルーかパプリカについては考察できる部分がおおいにあるのでツイッターか、もしくはここに、それについて投稿するかもしれない。

 聲の形は劇場で見たので二回目。劇場で見たときは「川井は脳のものを考える回路が腐っている」と思ったのだが、二回目は「川井は脳のものを考える回路が腐っている」と思った。結局。

 僕はよく「創作物の登場人物の行動には一貫性を持たせる、または視聴者が納得出来る理由をつけてほしい」と言っているのだが、聲の形でそれが備わっている場面は実は多くないと思う。

僕がなぜそう言っているかというと、「キャラクターが物語の外側(=製作者たち)の都合で動かされている姿を見たくないから」である。そう見えないのであれば、キャラクターに一貫性がなかろうが何をしようが構わない。そういうわけで、ただでさえ思春期の不安定な子どもたちに「西宮」というエラー要素を与えたらバグるのは当たり前だな、と思える。あと植野を好きなオタクは絶対マゾ。

 それと、さくらももこの訃報を聞いたので、彼女のエッセイを引っ張り出して読んだ。「もものかんづめ」だ。ゲラゲラ笑うというよりニヤリといやらしい笑みが零れる。「メルヘン翁」が個人的には好きだ。

 いくつか記事の下書きが溜まっているので、少しずつ書き進めたいと思う。次投稿するのはおそらく自分の好きな漫画について、だと思われる。